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岡山地方裁判所 昭和43年(わ)674号 判決 1970年1月13日

被告人 Z・M(昭二五・二・一一生)

主文

本件公訴事実中

一、重過失致死の点につき被告人は無罪。

二、道路交通法違反の点につき事件を岡山家庭裁判所に移送する。

理由

(無罪判決の理由)

一、本件公訴事実の要旨は、

被告人は、昭和四一年一一月○日午後六時二〇分頃、原動機付自転車を運転し、時速約四〇粁で、岡山県和気郡○○町大字○○地内路上を南進していたのであるが、運転免許も運転経験もなく運転技術も未熟であるから、ことに夜間道路における自動車等の運転は厳にさしひかえ危険の発生を未然に防止すべき注意義務があるのに、これを怠り、漫然安全を軽信し、前記同一速度で前方注視を欠いたまま進行を継続した重大な過失により、折から道路左側に竹を積んだ農用車を置き積荷を田圃に運搬しようとしていた○川○二(当四六年)所有の右農用車に自車前部を衝突同人を道路左側の溝に転落させ、よつて同人に対し右肩甲骨骨折等の傷害を与え、昭和四二年八月△日午前五時三〇分頃、兵庫県赤穂市○○××番地○○病院において、右傷害に基く右横隔膜下膿瘍により死亡するに至らせた、

というのである。

二、そこで考えてみるのに、被告人の当公判廷での供述、備前簡易裁判所での第四回公判調書中被告人の供述記載、被告人の司法警察員に対する供述調書、同裁判所での第三回公判調書中証人○上○生の供述記載、同第四回公判調書中証人○房○雄の供述記載、証人○城○彦の当公判廷での供述、当裁判所の証人○島○一、同○上○生に対する尋問調書および検証調書、○川○二の司法警察員に対する供述調書二通、司法警察員作成の実況見分調書三通、医師○島○一作成の診断書、医師○城○彦作成の死亡診断書、押収の○川病院の診療録(証第三号)によると、次のような事実が認められる。

(一)、被告人は、岡山県立○○高等学校二年に在学中の一六歳の少年であつたが、事件当日午後六時過頃、稲刈の手伝を終えて後、運転練習のため、父所有の原付自転車(ホンダスーパーカブ号五〇cc)に乗つて家を出、自宅近くの堤防付近をしばらく走つて後、午後六時二〇分頃、岡山県和気郡○○町大字○○地内の県道上を時速二〇ないし三〇粁で南進中、同県道と同町原部落に通じる道路とが接する三差路付近において、自車の進路前方にあたる同県道東端に真竹を積んで停めていた○川○二所有の農用車を発見、これとの衝突を避けようと急いでハンドルを右に切つて制動の措置をとつたが及ばず、なにかに接触ないし衝突したうえ同道路を斜走し、道路西端に原付自転車もろとも転倒したこと(この位置関係は別紙図面参照)、

(二)、幸い被告人自身は、左腕と左足を打つた程度で外傷もまた着衣の損傷もなく、乗用の原付自転車は、左側の風防上部が割れて飛び、右側の風防が中央部より斜め上に向け割れたほかにはさしたる損傷がなかつたこと、

(三)、被告人の供述するところによると、接触ないし衝突した際は、「竹をひつかけて行つた感じ」で、「おそらく竹ですべつたように思う」ということであり、その際どのような音がしたか、またどのような状況であつたかは夢中であつてよく憶えていないということ、

(四)、転倒直後頃、対向進行して来たマイクロバスの運転手にうながされ、路上に落ちていた積荷の竹(その本数は正確に確定しえない)などを片付けていた際、同県道東側に並行して設けられている灌漑用の側溝内から「うめき声」が聞こえたので、たまたま通りあわせた○房○雄らと付近を探索したところ、同側溝内に倒れている被害者○川○二が発見されたこと(この位置は別紙図面参照)、

(五)、被害者○川○二は、○○鉄道に勤務するかたわら農業に従事していたが、刈り取つた稲を干すための「はぜ竹」を田に運ぶため、農用車(俗にいう大八車)の荷台に長さ約二米位、直径四糎位の木の稲足五、六本位を積み、更にその上に長さ約一〇米の真竹一二本を積んで、午後五時五〇分頃に○○鉄道○○駅前を出発し、前記県道を南下して前記三差路付近まで運び、同道路東側に自己の耕作する田があつたため、前記側溝にかかつている土橋のところに農用車の車軸がくるようにして、同道路東端に約八〇糎の余地を残して道路と並行に車を停め(この位置は別紙図面参照)、おおよそ午後六時五分頃から、土橋を渡つて積荷の真竹を一本ずつ県道の東約三〇米のところにある田に運びはじめ、合計八本を運び終つていたこと、

(六)、被害者○川○二が生前司法警察員に供述したところによると、同人は積荷の真竹八本を運び終り、九本目をとりに県道に出て、農用車の車軸のすこし北側の側溝寄りのところ(この位置は別紙図面参照)で次の竹をとろうとしてかがみかけた時、突然黒いかたまりがとび込んで来て右胸の辺りに当つたことまでは覚えているが、その後四日間位の出来事は思い出せないと述べていること(なお、同人は昭和四一年一一月一一日の司法警察員の取り調べに対してはぶつかつた状況はよくわからないと述べており、前記供述は翌四二年四月一二日のものである)、

(七)、右農用車は手木を含めて全長三米のもので、事故現場に残されていた四本の竹は、正確にはうち一本が長さ一〇・四米、残り三本が九・六米、その太さは根元の方が周囲二○ないし二三糎、先の方が周囲一一ないし一二糎、その重さは検証実施時の昭和四四年九月三〇日試みに一本を計量してみたところ七・二〇瓲(事故当時は青竹であつたので今少し重量があつたと考えられる)もある太くて長いもので、農用車の前後に三米強ずつはみ出して積まれており、根元の太い方を北側にしてそちらが地面についていたと認められること、

(八)、右農用車には原付自転車との衝突その他による損傷は認められず、また衝突の衝撃により移動した形跡も認められなかつたが、現場に残されていた竹のうち二本の根元から二・七ないし二・九米にわたり車てつ痕が、またうち一本の竹にはその根元から一・三五米のところより一・四米にわたつて竹の表面をえぐつた擦過条痕が認められたこと、

(九)、被害者の転落していた側溝は、同県道東側に接して県道と並行に南北に通じる幅一・六米、深さ県道側一・四米、反対側一・二米のもので、事故当時は水がなく、溝の床は人の足跡が残る程度のやわらかい土で、県道と反対側は溝床より高さ三五ないし四〇糎は切石がつまれ、その上に約二〇糎の土が盛られてあぜ道になつていること、

(一〇)、被害者○川○二は、右側溝のあぜ道の下の切石のところに頭を北にし体の右側を下にして南北に倒れており(この位置は別紙図面参照)、その頭の位置は、被害者が九本目の竹をとろうとしていた地点より南東約四・八米のところであること、

(一一)、被害者の転倒していた地点のあぜ道は、一部上に積まれた土が脱落して約五〇ないし六〇糎にわたつて切石の端が露出し、その切石から四〇糎位西方の溝床の中につけもの石大の丸い石があつたが、その切石および丸い石の両方に血痕が付着し、その付近は被害者救助のためについたと認められる足跡が多数認められ、そこより北西の土橋の下附近には人または物が落下したと認められるような痕跡はなかつたこと、

(一二)、被害者の体に存した傷は、右肩甲骨および第五ないし第一一肋骨骨折(背面のもの)、右肺上葉刺創、右肝破裂、胸腔内出血、後頸部挫割創および頭頂部の挫傷で、挫骨の骨折は身体と乗直にほぼ一直線に生じていて、折れた骨が肺および肝臓に刺さつてそれらを損傷して胸腔内に出血し、出血性ショックの症状がみられたこと、

(一三)、肩甲骨および肋骨の骨折は、その形状および程度からして、鋭い、固いコンクリート様の縁に激しく当つたために生じたと考えるのが適当なもので、本件側溝内の切石に転落時激突して生じたと認められ、後頸部および頭頂部の傷はいずれもその成因は不明であるが、ともかくもその部位に骨折などはなく、三針程度の縫合を要したものであること、

(一四)、被害者○川○二は、同町○○×××番地○川病院に運ばれ、手術をするなどの治療をうけた結果、昭和四二年三月二八日、同病院を退院して以後通院により治療をうけていたが、その後赤穂市所在の古城病院に転医し、同年八月三日、肝臓破裂により形成された腹壁の瘻孔を閉鎖する手術をうけたところ、手術後の異常出血とそれによる腎機能不全のため、同月六日、同病院において、不幸にしてこの世を去つたこと、

三、右に認定した事実を総合して本件事故の成因について考えてみるのに、

(一)、まず、被害者○川○二の前記供述中、「九本目の竹をとろうとしてかがみかけた時、黒いかたまりがとび込んできて、自己の右胸に当つた。」旨のあたかも本件事故が被告人ないし被告人運転の原付自転車が被害者の右胸に衝突して生起したかのような部分は、被害者および被告人ならびにその運転の原付自転車にそれにみあう傷ないし瘍跡が存しないこと、当時被害者は、農用車の東側(被告人の進路からみて左側)の農用車および積荷の竹の中央付近にいたと認められるから、仮りに被告人ないし被告人運転の原付自転車が被害者に当つたとすれば、当然、被告人および原付自転車も、被害者とともに本件側溝内に転落するか、または農用車に激突していなければならないと考えられるのに、そのような事実はなく、かえつて被告人は原付自転車もろとも農用車の西側(被告人の進路からみて右側)に転倒していることなどからして信用しがたく、被害者の体に直接被告人ないし被告人運転の原付自転車が衝突したとは認められない。

(二)、ところで、積荷の竹に車てつ痕および擦過条痕のあつたこと、被告人の供述中、「竹をひつかけていつた感じがした」あるいは「竹ですべつたように思う」との部分、被告人の進路と転倒位置(この位置関係は別紙図面参照)との関係を総合すると、被告人は、農用車との衝突を避けようとしてハンドルを右に切つたが、積荷の竹が荷台より出ばつていたため、これを避けられないで、竹の先端に衝突し、地面についていた竹に乗り上げこれを乗り越して、右に斜走して転倒したと認めるのが相当である。

そうすると、被害者の側溝への転落が被告人の右衝突に起因しているとすれば、衝突の衝撃で農用車が動き被害者がその農用車に当てられて転落したか、あるいは、積荷の竹がはねてそれが被害者に当り、その衝撃で転落したかのいずれかであると考えられる。

(三)、右のうち、被害者が衝突の衝撃で動いた農用車に押し当てられて側溝に転落したとの点については・被害者が農用車を停めていたと指示する地点と衝突後農用車のあつた地点とがほぼ一致していること、積荷の竹の地面に接している方に衝突して乗り上げているため、農用車を前方に押し出す力はあまり加わつていないと考えられることなどよりして、農用車がすくなくとも被害者を側溝に転落させる程動いたものとは認めることができず、この推定は成り立ちえないものと考える。

(四)、そこで、積荷の竹がはねて被害者に当り側溝内に転落させたのではないかとの点について考えてみるのに、被告人運転の原付自転車が積荷の竹に衝突した時荷台に残つていた「はぜ竹」は三ないし四本であつたこと、それはいずれも長さ約一〇米の太くて長いものであつて、荷台の後端より更に約三米強はみ出しており、その先端部分が地面に接して斜めに荷台に乗せられていたものであつて、被告人運転の原付自転車は地面に接した方から積荷の竹に乗り上げ乗り越したと認むべきこと前記認定のとおりである。そうすると、被告人乗用の原付自転車の乗り上げによつて積荷の竹のその部分は押し下げられ、車輪の通過した後、その反動で上にはね上り、落下するという動作をくり返したものと認められる。そして、その過程においてはね上つた竹が左にふれて被害者の体に当ることも十分推認できるところである。検察官も本件事故の原因について右のように主張している。そこで、この点について更に考察を進めることとする。

(五)、被害者が記憶を失う直前にいたと指示する地点と被害者が転倒していた地点との間には約四・八米の距離があること、被害者がいたと指示する地点に近い土橋付近の溝床には人または物が落下したことを認めさせるような痕跡のなかつたことなどによると、被害者はそのいた地点から転倒していた地点付近まで直接にはね飛ばされたと考えられるのであるが、そうすると、被害者は四六歳の男子であるから、かなり強い力が被害者に加えられているはずである。

積荷の竹は前記のとおり長くて太いものであり、その一方に進行中の原付自転車が衝突したのであるから、青竹の反発力を考慮すると、人体をゆうに四、五米もはね飛ばすだけの力の出ることは積荷の竹の状況、竹への当り方などによつて、物理的にみて可能であるかも知れない。しかしながら、そうすると、当然に力を加えられた被害者の側にもその衝撃をうけただけの痕跡がなければならないと考えられる。しかるに、被害者の体に存した創傷中、右肩甲骨および右第五ないし第一一肋骨骨折および右骨折にともなう右肺上葉刺創、右肝破裂、胸腔内出血はいずれも側溝中の切石の端に当つてできたものと認められ、後頸部挫割創および頭頂部の挫傷は骨折等をともなつているものではなく、またその位置からしてもはねた竹が当つて生じたものとは認めがたいなど被害者の体には右のような竹の衝撃をうけた痕跡は存しないのである。検察官は、竹の丸い胴の部分が着衣の上から被害者の胸部に当つたのであるから、外見上被害者の胸部に外傷が認められなかつても不思議ではないと主張するが、着衣のうえから丸味をもつた竹の胴が当つたとしても、すくなくとも静止している被害者を約四・八米もはね飛ばしているのであるから、その衝撃の相当に強度であつたことはいうまでもなく、外傷その他が残らなかつたとは到底考えることはできない。もつとも、被害者のいた位置が被害者の指示する地点より南寄りの転落地点に近い県道上であつたとすれば、被告人運転の原付自転車の衝突した竹の先端部分にいたことになるので、荷台が支点となつてはねた竹にふり廻されるような状態で側溝内に転落することも考えられ、この場合には外傷が残らないこともあり得ると思われる。しかし、そうとすれば、被害者は、おそらく、県道とほぼ直角にしかも県道寄りの側溝内に転落するのが通例と考えられるのに、側溝の県道と反対側の切石にしかも道路と平行に激突しているのであるから、これも疑わしく、また他に被害者が南寄りの地点にいたことを確認するに足る証拠はない。このように考えてくると、積荷の竹がはねてこれが被害者に当り側溝内に転落負傷したとも認めがたいこととなる。

(六)、被害者が積荷の竹のうち九本目をとりに来た時間と被告人が右積荷の竹に衝突した時間との間には、時間に関する記憶の不正確さを多分に考慮しても、さしたるへだたりはなく、時間的にみて本件が被告人の所為による可能性が認められ、また本件道路は県道ではあるけれども、通行車両等は比較的すくないので、本件が自動車その他の乗物による事故とすれば被告人運転の原付自転車による可能性が大きいと認められる。しかしながら、車両の通行量はすくないとはいえ、現に被告人が転倒した直後にはマイクロバス、続いて普通貨物自動車など二、三台の車が北進してきているなど、他車両による可能性がまつたくないほど通行量がすくないわけではなく、竹を運搬中路上に出た竹の先端に通行車両が接触擦過して(積荷の竹に存した車てつ跡および擦過条痕が必ずしも被告人の原付自転車のものであるとの確証があるわけではない)、竹にふり廻されて側溝内に転落することも、またあるいは、被害者自身がなにかの事情で側溝内に転落することも全くありえないわけではないので、前記説明のように被告人運転の原付自転車によると認めるのに疑点が存する以上、かかる抽象的、間接的事実をもつて、本件が被告人の所為によると認めることはできないと考える。

四、そうすると、本件は、重過失の存否、被害者の負傷と死亡との間の因果関係の存否などについての判断をするまでもなく、犯罪の証明が十分でないことになるので、刑訴法三三六条に従つて主文一項のとおり無罪の判決をする。

(移送決定の理由)

一、本件公訴事実の要旨は、

被告人は、公安委員会の運転免許をうけないで、昭和四一年一一月○日午後六時二〇分頃、岡山県和気郡○○町大字○○地内道路上において、原動機付自転車を運転した

というのである。

二、右の事実は、被告人の当公判廷での供述、備前簡易裁判所での第三回公判調書中証人○崎○校の供述記載、司法警察員作成の第一回実況見分調書によつて認められる。

三、(一)、本件は、前記無罪の言渡をした重過失致死(当時は重過失傷害)の事実とともに、昭和四二年五月二九日、岡山家庭裁判所裁判官によつて、少年法二〇条による検察官送致決定がなされた結果、公訴を提起(略式起訴)されたものであるが、送致決定書に、「罪質並に情状に照し、刑事処分を相当と認めた、」と記載されているところよりすると、刑事処分を相当と認められたその主たる理由は、重過失傷害(当時は治療日数約六ヵ月を要する重傷とされていた)の事実にあつたものと考えられる。従つて、当時、重過失傷害の事実について、被告人の所為によるものかどうかの疑いが生じていたとすれば、無免許運転の本件事実のみをもつて刑事処分が相当と判断されたかどうか疑わしいといわざるをえない。

(二)、本件重過失致死の事実と無免許運転の事実とは、併合して審理されてきたものであり、前者につき無罪の言渡をしたとはいうものの、上訴審においてこれと異る認定がなされる法律上の可能性のある現段階において、その事実を全くないものとして、無免許運転の事実のみを切り離し、通常の不服申立の許されない家庭裁判所への移送の決定をすることが、果して妥当かどうか疑問なしとしない。

また、被告人は、少年法所定の少年であるとはいえ、満二〇歳に近い年齢に達しており、今更保護処分になじむかどうかも問題と思われる。

(三)、しかしながら、本件は、事案が複雑であつたことのほかに、略式命令から正式裁判に移行し、更に事件が地方裁判所に移送されたという手続の複雑性、被害者が死亡したことによる訴因の変更、更には弁護人が病気で入院したという主として被告人の責に帰しがたい事由によつて審理が遅延したものであつて、年齢の切迫を被告人の不利益に考慮しがたい事情が存するうえ、もともと、被告人は、犯行時一六歳の非行歴のない学業成績優秀な真面目な少年であつて、交通量の比較的すくない田舎道を、原付自転車を運転して、わずかの時間、距離を走つたという事案であり、併合されていた重過失致死事件の審理を通じ、交通事犯の重大性を身をもつて体得し、反省していると認められるので、このような被告人に対し、年齢の切迫と手続の不合理のゆえをもつて、罰金にしろ刑罰を科することは妥当でないと考える。

四、そこで、本件については、被告人を保護処分に付するのが相当であると認め、少年法五五条に従つて、事件を岡山家庭裁判所に移送することとし、主文二項のとおり決定する。

(裁判官 岡次郎)

別紙図面(編省略)

〔編注〕受移送家裁決定(岡山家裁 昭四五(少)一〇七四九号 昭四五・一・三〇決定 審判不開始)

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